【難病・魚鱗癬】感染が命の最大のリスク、だから「医師よりも、お母さんが一番の先生なんです」———若き母、息子の難病の先輩から「気づき」を得る
難病を持つ我が子を愛する苦悩と歓び(46)
◼︎危惧していた感染症にかかった遼さん
遼さんの場合、同じ「魚鱗癬」でも、皮膚への刺激があるとそこに水疱(すいほう)ができるという症状や、右手の指が変形して、ものをつかむのも思い通りにいかないという障害もありました。
これらのケアについても、大きな制約が生じました。
幼児期にオムツを替えるとき、ズルっと皮膚が剥げてしまいかねないので、細心の用心が必要でした。抱っこも這(は)い這いもできません。それらは自立歩行を促す大事な行為なので、当然、歩行するまでの期間も遅くなりました。
歩けるようになっても、すぐに足の裏に水疱ができるので、ごく短時間しか歩けません。そのため小学校の時期まで、車椅子中心の生活でした。
これらの乳幼児期・児童期の制限がどんな影響を及ぼすか、遼さんは後年になって知ることになります。
「つまづいて転びそうになるとき、とっさに手を出しての受け身ができずに、顔面から着地してケガをしたり、打撲してしまうんです」
そんなこともあり、小学生のときは毎年のように入院していました。
学校は視覚・聴覚障害、四肢不自由者、知的障害の子らが通常の学校教育に準ずる教育を受けられる特別支援学校。それらとは別の区分になりますが、病弱の子らを受け入れる特別支援学校もあって、そこに通いました。授業のカリキュラムは普通の学校とほぼ一緒でした。
病気の困難は思春期にもありました。
19歳で初めて家を出て、専門学校の寮に入っていたとき、危惧していた感染が起こり、入院と退院を4回繰り返しました。このときは原因菌がわからず、特効薬となる抗生剤が打てないこともあり、治りが中途半端で、退院と再発を繰り返しました。学校の寮などの共同生活ではやむをえないのですが、風呂場のマットから感染ったのではないか、と医師は疑いました。
そういった共同生活のスタイルは、仮に感染症が治っても継続しなければなりません。
このままでは寮生活も、専門学校の勉学も維持できない、と心配する人もいて、一時は退学も考えました。
ですが遼さんは「学校を卒業して、進路を拓きたい」という欲求が強く、なんとか踏ん張りました。その後、障害者のための職業訓練校に通い、今の職場に入ることができたのです。
遼さんを育てるにあたって、母親の千鶴さんは「仮に自分が先にこの世を去っても、息子が一人でも生きていけるように」と、ひとつの目標を立てました。
それは「自分の病気を、自分の言葉で、説明できるようになること」です。
たとえば自分の病気が人に伝う染つるものではないこと、むしろ感染るリスクが恐ろしくためのケアが絶えず必要なことです.
これをちゃんと説明できるのとできないのでは、集団に受け入れてもらえるかどうかの瀬戸際になります。
KEYWORDS:
『魚鱗癬の会 ひまわり』
代表:梅本 千鶴
連絡先:〒804-0082 福岡県北九州市戸畑区新池3-2-13
E-mail gyorinsen1998@yahoo.co.jp
ホームページアドレス http://gyorinsen.blog.fc2.com
魚鱗癬でお困りの子どもさんやそのご家族のための集まりです。
【参考文献】
『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』(アメーバブログ)
産まれてすぐピエロと呼ばれた息子(書籍)
ピエロの母
本書で届けるのは「道化師様魚鱗癬(どうけしようぎょりんせん)」という、
50~100万人に1人の難病に立ち向かう、
親と子のありえないような本当の話です。
「少しでも多くの方に、この難病を知っていただきたい」
このような気持ちから母親は、
息子の陽(よう)君が生後6カ月の頃から慣れないブログを始め、
彼が2歳になった今、ブログの内容を一冊にまとめました。
陽君を実際に担当した主治医の証言や、
皮膚科の専門医による「魚鱗癬」についての解説も収録されています。
また出版にあたって、推薦文を乙武洋匡氏など、
障害を持つ方の著名人に執筆してもらいました。
障害の子供を持つ多くのご両親を励ます愛情の詰まった1冊です。
涙を誘う文体が感動を誘います。
ぜひ読んでください。